伊藤機械とベンリートラバース®の歩み

社員18人。特許20件。
発明のコツを、盗みにおいで。

未経験でもかまわない、
あんたの意欲は、私らの経験で後押ししよう。

※1995年掲載求人誌より抜粋

工場の回りは、ずーっと栗林。最初はみんな競って拾ったけど、最近は見向きもしない。ちなみに隣町の千代田町は、果物狩りで有名な場所。

東京から常磐線に乗って、土浦駅のひとつ先。神立(かんだつ)駅から車で5分の栗林の中に、「世界有数の町工場」はあります。

64歳の社長は、戦後すぐ、自力で洗濯機などを作り上げてしまったという、機械いじりの達人です。
縁あって電線会社の仕事を引き受けたとき、彼が作ったのが、今や日本の大手電線メーカーの必需品となった「ベンリートラバース®︎」。

電線は、出荷するときコイルに巻きます。その際、均一に巻けるように、ちょうど金魚体操のように規則的に左右に揺れて、電線をリードしてあげるのが、トラバースという機械。
「便利だからベンリーって名付けた」と社長の言うこの製品は、安価で、小型で、しかも精度が高く、発売から25年たった今も売れ続けています。
「そのあとはトラバースの改良に熱くなっちゃってさ、巻取り機全体もつくっちまった。」その過程で、今までに20件の特許を取っています。アメリカでの特許もあります。

これが「ベンリートラバース®」。軸に対して斜めに接する、リング型のベアリングがミソ。いまだにこれを超えるトラバースは、出ていないのだ。
職人さんの手作業は、さすが。「でも、機械に置きかえられる部分も多いんですよ。若い人に、無謀なくらい挑戦してもらいたいですね。」と工場長。

「いろんなものが作りたくって、次から次と工作機械を入れてたら、東京の工場が狭くなってね。12年前にここへ移ってきたんだ。」

ゆっくり確実に伸びてきたこの会社にも、実は大きな弱点があります。
「機械に夢中で、若いもんを育てるの、すっかり忘れちゃったんだ。」
社員の平均年齢は、55歳。44歳の工場長が、最年少、なのです。
「せっかく技術も設備もあるのに、もったいないんですよね。」と工場長は言います。

「マシニングセンターなどが4台もあるのに、月の半分は遊んでるんですよ。みんな職人気質なもんで、動かすのは私だけだし。」 「CADも私がいじる程度だしね。」と専務は言います。

「若い人が来てくれたら、何でも教えるし、設備を好きに使ってやりたいことに挑戦してもらってかまいません。大丈夫。トラバースのおかげで、少々の冒険じゃ会社はびくともしませんから。」社長は言います。
「ちょっと前に病気をして、左半身が言うこときかなくなっちゃったからさ、口が元気なうちに、機械いじりの極意を伝えときたいんだよな。」
来ませんか。住まいのことは、親身に考えます。

創業者 伊藤文平社長は車椅子で工場の中を見て回る。あなたが来たら、べらんめえ口調で熱心に教えるだろうな。
工場長の奥さんは、社長の娘さん。子供は3人で、下の2人は双子。「子育てには最高の場所ですよ。そこら中が公園みたいなものですから。」
54歳の専務は設計技術者。「学校へ通ったり、大手メーカーで研修受けてもらってもいいですよ。職人たちは口べたでうまく教えられないかもしれないし。」
10年たったら、ほとんど全員が引退してしまう。その時は、間違いなくあなたの会社になっている。どんな会社にしてくれるだろう。

Founder Bunpei Ito 創業者 伊藤文平

生い立ち

  • 明治38年3月 東京青山六丁目に長男として生まれる。
  • 米騒動により生活苦に。13歳で時計屋で小僧として一年半奉公。
機械物をいじるのが好きで、機械屋の元になったと振り返っています。

文平、炭屋はじめるってよ

  • 16歳で独立自営が一番と考え、父親に相談の結果、並木橋で「炭屋」として独立。
  • 40円を元手に得意先を開拓、2年で立派な炭屋に。
  • 関東大震災(19歳)や昭和恐慌(22歳)を経験し、都市ガスの普及(32歳)を夏場は炭を使用するパン屋で乗り越える。
  • 日中戦争で物資は配給制度になり、木炭も規制される。炭屋も商売しづらくなり、近所の商人もみな軍事産業の工場へ徴用されるように。
  • 戦争が激化する中、将来への不安から転業について1年ほど悩み、36歳で廃業を決心する。
徴用されるよりは炭屋を辞め、小さくとも軍事産業に転換した方がよいと考えたようです。

The Beginnings of Ito Machinery 伊藤機械のはじまり

1941

昭和16年9月 部品加工業を始める(並木橋)
工場を完成させ港区の自動車部品メーカーに旋盤を半月程学ぶ。
(初めての仕事は真鍮の棒にダイスを通して、40mmにカットして面取り)

恵比寿の部品加工屋の方に段取り含め教えてもらいながら仕事をこなし、少しずつ経験を積む。

鶯谷の飛行機部品の下請の下請として、太平洋戦争の中、良一(12歳)と共に徹夜しながらも生産。
終戦までこの仕事を続ける。

1945

昭和20年 B29の焼夷弾により東京の大半が焼ける。
家は無事ではあったが、電気が通らず。
渋谷で電気の来ている空地(現所在地)を見つけ木造平屋の工場を建てる。その後ここで良一が所帯を持ち、住むこととなる。

召集令状が届くも終戦日を迎え、入隊を免れる。(40歳)

1947

恵比寿のヒューズ屋よりヒューズ押出機を製作の依頼があり、初めて機械1台を作る。(42歳)

各地で幼稚園が出来始めたため、遊具の製作を行い仕事量を賄う。

なべ底不況により得意先が次々と倒産。
対策を考える中、同じ町内の武蔵金線より機械の修理を受けるようになる。
そこで「電線機械の生命は巻取りにある」と教わる。

1953

良一(21歳)と性能の良い巻取機の製作に力を入れ、各地の電線会社と取引するようになる。(48歳)

1957

昭和32年 良一(25歳)に継承し、(有)伊藤機械製作所となる。(52歳)

1970

昭和45年頃に良一(38歳)がベンリートラバース®を開発する。

ベンリートラバース®